第二次世界大戦中に日本がフィリピンを占領していた時、日本軍が現地の人に課した規則があった、という画像がRedditに投稿されていました。
- 日本軍の兵士に会ったら敬礼をしなければいけない。
- 全ての家の玄関に日章旗を掲げなければいけない。
- 各人は左腕に日の丸の腕章を着けなければいけない。
- 各人は居住証明書を持たなければいけない。
- 日本軍の兵士を見たら歓迎し、逃げてはいけない。逃げた者は敵と見做す。
- 間違った値段を言わない限り、道理に従って金を渡す。
- 日没から日の出まで、ランプを持たずに出歩くことを禁ずる。見回り兵はライトを持たない者を警告なしに撃つ。
- 共産主義者、賊徒、中国人の嘘に騙されてはいけない。
- 煽動のための放火、強盗は罰される。
- 銃火器の携帯は軍によって許可される。ただし、市長に届け出て、許可を得なければいけない。
- 職のないものは軍によって職を与えられる。
- 市長、知事の命令に従うべし。
第二次世界大戦がはじまると日本は東南アジア各地に進軍し、南方作戦の一環として1941年フィリピンにも上陸する。日本軍は150日でフィリピンを占領するが、その際バターン要塞から数万人のアメリカ兵およびフィリピン兵捕虜を食糧補給が可能な地点まで100kmにわたって徒歩により移動させたため多くを死亡させるバターン死の行進事件が起きた。
以下、海外の反応。
・文字が読みやすいように修正はされてる。他にもここでフィリピン、マニラの写真を見られる。
・なんで英語で書かれているんだ?
・フィリピンは日本に占領される前はアメリカの植民地だったからだよ。
・この時代の日本人を打ち負かしといてよかったわ。今でも日本に帝国主義があったらと思うと怖すぎる。
・僕の祖父は日本軍の靴工場で働かされてたんだよね。しかもそこで結核にかかっちゃった。もっと戦争の時の話を聞いとけばよかった。
・『動物農場』を思い出した。
・僕のお祖父さんは日本に占領されてたときに12歳か13歳くらいだった。日本軍がマニラに来た時、軍の使い走りにされたらしい。そして毎朝、日本の国歌を歌わされたらしい。僕が高校の時に日本語を勉強していて、そのことをお祖父さんに話すと急に日本語を喋ったんだ。その時に戦争の話を聞いたんだよ。
・1899年にアメリカがフィリピンを植民地化したときよりマシだけどな。
・僕の親友はフィリピン系アメリカ人なんだけど、彼の祖父は戦時中にフィリピンに住んでたらしい。その人の話によると、日本軍がフィリピンに来た時、フィリピン人に金目の物を差し出すように要求したらしい。親友の曽祖父は結婚指輪を持ってたんだけど、それも要求して、曽祖父が断ると指を切り落として強奪したそうだ。他にも赤ん坊を放り投げて銃剣で刺したとか、そんな話を聞いたよ。
・これは興味深い写真だな。僕の祖父の家は日本軍に借りられていたらしいけど、やっぱりその人達はいい人じゃなかったらしい。
・僕の曽祖父はフィリピンの斥候で、バターン死の行進の時に捕虜にされてた。そこから逃げ出してゲリラ兵になったらしいんだけど、いろいろ怖い話を聞いたよ。あの時代にフィリピンの市民として、特に女性には生きるのは難しかったんだろうな。
バターン死の行進(バターンしのこうしん、タガログ語: Martsa ng Kamatayan sa Bataan)とは、第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦において、バターン半島で日本軍に投降したアメリカ軍・フィリピン軍捕虜民間人が、収容所に移動するときに多数死亡したことを言う。全長は120kmで、その半分は鉄道で運ばれ、残り3日を徒歩で移動した。
・日本人が言うには、日本はアジア諸国を西洋の植民地化から解放したから、現地人から歓迎されたって話らしいけどな。
・僕の祖父は目の下に傷があるんだけど、それは日本軍の将校にお辞儀をしなかったことで銃剣で殴られてついた傷らしい。祖父は激情家で、日本軍の兵士を石で撲殺したこともあったらしい。
・僕はポーランド人なんだけど、ポーランドにもドイツに占領されてたとき、「ドイツ軍の兵士には敬礼しろ」だの「ドイツの国旗を掲揚しろ」だのといったルールがあったらしい。ドイツ人専用の店なんかもたくさんあった。
・この規則を読む限りはそんなにヒドい内容じゃないけどな。実際はヒドい扱いだったらしい。
・十分ヒドい内容だと思うが。
出典:Japanese Rules for Filipinos in Manila, Philippines in WWII, 1941-5 [2048×1333]